溢れる主の恵み」 マタイによる福音書13:1~9

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」”

 種を蒔く人のたとえの強調点は御言葉そのものにあります。「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。」(イザヤ55:11)、「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブ1:21)とあるように、御言葉には命と力があります。使徒パウロも、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」(ローマ1:16)と証言します。

 御言葉を「聞く」ことと「聞いて悟る」ことには大きな違いがあります。前者が自分を主体としたものとすると、御言葉を自分のために利用したり取捨選択はしても、自分は変わらないことと言えます。しかし、「聞いて悟る」ことは、御言葉を主体とし、御言葉に聞いて変えられていくことです。良い地とは、無条件に与えられる神の恵みを喜んで受ける心の態度と言うことができるでしょう。人の力によってではなく、神の恵みによってもたらされる幸いは私たちの心を喜びで満たし、感謝を溢れさせます。マタイは喜びの大きさ豊かさを、多い数である100倍から始めて60倍、30倍と、誰でももれなく恵みにあずかると表現したのかもしれません。

 私たちは、自分に焦点を当てて、自分の心の土地の状態をこのたとえ話に当てはめ教訓話としてはいないでしょうか?そうではなく、神の御言葉、福音は聞いて受け入れさえすればすべての人に救いをもたらし、溢れる喜びを与えるのです。「持っている人は更に与えられて豊かになる」ことが、このたとえの目的であり、福音を聞く耳、受け入れる心の幸いを私たちに語りかけているのです。

2013年2月3日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)