「イエスさまの祈り②」 ルカによる福音書11:1~13

「主の祈り」を私たちが祈る時、そこにイエスさまが共におられます。ルカ福音書では生活上の切実な必要に答える形で「主の祈り」が教えられています。祈りのない生活は無防備で人生の荒波に向かうようなもので考えられないことです。しかし、私たちは祈り無しに生きられると勘違いしています。「祈りを教えてください」との弟子たちの願いは正しい回答者に向けられた正当な願いでした。

ルカでは前半の祈りは、神を賛美し称える祈りです。神を神として認め、信頼するがゆえに「お父さん」と呼びかけます。また、その祈りは、主イエスが神の子であることを思い出させ、主イエスと父なる神との関係に私たちを招かれるのです。

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」 マタイ福音書では「必要な糧を今日与えてください」と、切実な祈りとなっています。そのどちらの祈りも、生活に必要なすべての糧が神さまからいただいたものであることを忘れない祈りです。新生讃美歌109番「ひとも ものも ときも」という曲があります。それはすべて主のものと讃美します。生きることは霊肉どちらにおいても不安なことです。その不安が物を求めさせ、欲が私たちの目を神さまの恵みから離れさせます。

「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」 人を裁く思い、人を赦せない思いは私たちの心を束縛し、心の自由を奪います。「赦し」も神さまからいただくものです。自分の罪のためのイエスさまの十字架を知り、どんな罪も赦してくださる神に信頼できるよう祈ります。

「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」 口語訳「主の祈り」では「試みにあわせず悪より救い出したまえ。」と祈ります。軍隊用語、「(危険から)引きずり出す」と言う強い言葉が使われています。「誘惑」は「悪」という神に敵対する具体的な人格をもって私たちの心の内に存在するのです。戦争、飢餓、迫害、差別、いじめ、犯罪、ハラスメント・・現代は益々「悪」を抽象的にしか捕えられなくなっているのではないでしょうか?誘惑からの脱出の道、それは神さまからいただく憐みと慈しみに満ちた聖霊により与えられ、私たちは内なる戦いに備えるのです。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」父なる神は既に私たちに必要なものを準備し、大胆に求めることを願っておられます。

2013年1月27日  (過去メッセージのリンク)
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