救い主の到来」  ヨハネによる福音書1:6~9

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40:3,4) 

イザヤによるイスラエル滅亡後に現される主の救いとその備えのための預言です。それは、バプテスマのヨハネが現れたことで成就しました。イザヤの時代はアッシリア、バビロニアによる国存亡の危機、ヨハネの時代にはローマによる支配という暗黒の時代をイスラエルの民は生きていました。預言者たちは、イスラエルの罪が神の裁きを招いたことを明らかにし、悔い改めを求めました。しかし、神は自らの意思と決意とをもって彼らに救いと解放の光をお与えになりました。「闇の中

を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)その光はこの世の求めるまばゆいばかりの光ではなく、まことの光で、世に来てすべての人を照らす光でした。ヨハネは、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と証し、絶望の中に光る小さくとも真実の犠牲の命の光としました。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とあります。バプテスマのヨハネは神の恵みによる救いの良き知らせを心でまっすぐに受けることを求めたのだと私は思います。連盟にある「障害」者と教会委員会から「共に礼拝し、共に宣教する教会~障害を持った人たちと歩む」という本が刊行されました。委員長の内田章二先生(古賀バプテスト教会協力牧師)は障害者としての人生を「規格外」の羊の歩みであったと振り返ります。重度の障害を持ってこの世に生を受けたご本人とその家族は「規格外」の悲哀を幾度となく経験しながら生きて来られました。そのような中、先生は神を探し求め、そして神は先生を見つけてくださったと言います。神の前に生きることを許されている、否、身の回りのこともできない自分が喜び迎えられているにことに気付かされたときに先生は残る生涯を宣教のために生きることを決意されました。それは、神を証し、「一緒に輝く」ためでした。

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15、イザヤ52:7)バプテスマのヨハネに与えられた救い主イエスの到来を知らせる使命は、信じる者たちが共に輝くために与えられた恵みの特権ではないでしょうか?

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2013年12月1日  (過去メッセージのリンク)
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