「イエスさまの祈り」 マタイによる福音書6:9~15

「主の祈り」はイエスさまがご自身の祈りを弟子たちに教えられた簡素な祈りですが祈りの全て、本質と言っても過言ではありません。形式的に祈ってしまいがちですが、私たちの心の奥底を吟味させられる祈りです。

主の祈りは二部構成となっており、今週はその前半について考えます。前半は神に関する祈りで、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よあなたはすべてを知っておられる」(詩編139:4)と詩人が歌うように、祈りに答えてくださる方がどのようなお方であるかを告白するところから祈りは始まります。

「天にいます私たちの父よ」 原典では「父よ」から始まり、ユダヤ人には遠い存在であり、名を呼ぶこともはばかられた神を、イエスさまのように「アバ(父さん)」と呼ぶことから祈りが始まります。天とは「創造主」と「被造物」、「永遠」と「有限」というように、神と私たちが本質的に違うことを心に明記させる言葉です。

「御名があがめられますように」 「あがめる」と言う言葉は、「聖とする」という意味で元々は「区別する」ことに由来します。御名は神と神ご自身の本質です。神が神として人の間で聖別されることを願うのです。

「御国が来ますように」 この世は自分の国のことばかりに囚われて右往左往していますが、主の祈りはあらゆる民族、国民、言語、習慣、習俗を越えて、人間中心ではなく神とそのご計画中心の本来の世界の実現を祈ります。

「みこころが天で行われるように地でもおこなわれますように」 神のみこころと言いながら、私たちは自分のみこころの実現を求めます。最近、「置かれた場所で咲きなさい」という本がベストセラーになっていますが、静まりと祈りがなければ自分の今置かれている場所をみこころと識別することは難しいと思われます。

後半の人間に関する祈りについて、神学者バルトは「始めの三つの祈りは、もし後の三つの祈りがなければ決して存在しません。後の三つの祈りは初めの三つの祈りと同じように欠くことのできない祈りです。後の三つの祈りを祈らない人はまじめに祈っていないのです。」と語りました。「神を神とする」ことと、「パンを求めること」とは分けて考えることはできないように、隣人を赦すことと神に赦されることを分けて考えることはできないのです。イエスさまの祈りは私たちの矛盾する現実を神の国とつなぐ希望の祈りとも言えます。

2013年1月20日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)