恵みの礼拝」 使徒言行録2:43~47

先日、ある人に「クリスチャンはお正月、教会にお参りするんですか?」と聞かれました。私は「教会ではお参りとは言いませんけど、礼拝するために毎週皆で集まるんですよ。それが嬉しいんです。」と答えました。礼拝の元々の意味は、神様に出会うために共に集まるという意味があります。「教会学校ハンドブック」では、「礼拝を献げることは、私たちの日常生活の中断を意味します。自分中心に生きてきた一週間の歩みを中断し、神の前に歩み出るのです。そのとき主客逆転が起こります。私たちは、自分中心から神中心へと変わることをうながされ、神を賛美する者とされていきます。」と表現します。とすれば、「信仰」は、私が探求してたどりついた心境ではなく、恵みの御言葉と響きあう実生活の変化と言えます。 

「人々はこれを聞いて、強く心を刺された。」(使徒2:37)とあります。何を聞いたのか?弱虫で裏切り者のペトロが、ペンテコステ(聖霊が降った日)に「あなたがたが十字架につけたイエスこそ立てられた救い主」と大胆に証ししたこと、です。新共同訳では「心を打たれ」とありますが、原意は「何か物で強く突き刺す」という意味で、死んでしまうほどの威力があることです。人々はそれまでの的外れな礼拝、自分中心の生活に気が付かされ、心が死んでしまうような衝撃と、それを上回るイエス・キリストにある愛と赦しの恵みを受け取ったのです。

初代教会の人々は皆一つとなってすべてのものを共有し分け合い、毎日心を一つにして礼拝を守ったようです。そこには生き生きとした神様との関係、御言葉との響き合い、一人一人に神様から与えられた賜物を喜び用い合う関係があり、神の家族が形作られていきました。分かち合ったのは財産や持ち物だけではなく、神様への期待、自分が所有していると思っていたものを主に捧げ、神様がそれを用いて何をしてくださるかをわくわくして待つ喜びを分かち合ったのです。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)。「献げる」という言葉は「~の側に立たせる」という意味ですが、礼拝が義務から始まるのではなく、神の側に自由意志で立つ時何が起こるのかわくわくして待つ。そんな恵みの礼拝を私たちが第一とする時、御言葉はからし種のように成長を始めるのです。個人礼拝や家庭礼拝は主日礼拝を豊かにし、豊かな主日礼拝は個人、家庭礼拝を豊かにします。

2013年1月13日  (過去メッセージのリンク)
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