「すべてのことには時がある」コヘレトの言葉3:1~11

 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(新改訳) 

「空の空、いっさいは空である。」 コヘレトは、この世の価値あるとされる快楽、知恵、知識、金銀、権威、すべてのものを求め手に入れ、真理を探求しました。そして、幸いへの道は「神を畏れ、その戒めを守ること。」(12:13)だと結論します。人がその造り主を知らず、神との関係無しに生きるとすれば、人にとっては「この世がすべて」になると言うのです。しかも、それは「死」で終わることを意味します。遠い昔の人々に限ったことではなく、高度な文明社会を築き、繁栄を謳歌しているはずの私たちも、その空しさから開放されてはいません。11節の「人の心に永遠への思いを与えられた」とは、「神が彼らの心に置かれた永遠はもはや無い」とも訳されます。人の関心は「生きている間」だけになっており、「初めから終わりまで見きわめることができない」とは不条理な出来事や理不尽な出来事に意味や目的を見出すことができなくなっていると語っているのです。

「時期」(Hb.ゼマーン、Gk.クロノス)は生の営みの中に与えられるタイミングです。しかし、「時」(Hb.エート、Gk.カイロス)は、農夫が種を蒔いたり、刈り入れたりする時期を意味するのではなく、神が定められた「時」を意味します。その時でなければならない限られた「神のご計画の時」です。それがどんなに私たちの意にそぐわなくても、苦しみや悲しみを伴うとしても、それを受け入れるところから神の思いが私たちの心の内に働き始めます。神はすべてのものを時宜にかなうように造り、そのご計画には寸分の狂いも間違いもないのです。神を私たちの意にそぐわせるか、私たちが神の意に添って生きるか選択の戦いがそこにはあります。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」(ローマ56) パウロは、「永遠」を無くし、この世の出来事に意味を見出せなくなっていた私たちのために、ひとり子イエスをお与えになりその空しさをイエスによって埋めてくださったと言っているようです。「神のなさることはすべて時にかなって美しい」のは、神の犠牲の愛があるからであり、「この世」も「死」も愛する者を私たちから引き離すことはできないのです。

2013年11月3日  (過去メッセージのリンク)
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