「主の愛に応える」 ヨハネによる福音書
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イエスさまは十字架にかかる時が来たことを悟り、最後の晩餐の席を立って弟子たちの足を洗われました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(1節)」イエスさまが十字架にかかることを、弟子たちは全く理解していませんでした。この十字架の愛に気付かせるためにイエスは弟子たちの足を洗われました。当時、人々はサンダルのようなものを履いていましたから、足は体の中でもっとも汚れます。外から帰ると足を洗うのは奴隷の仕事でした。しかも最も嫌われる底辺の仕事でした。イエスさまはひざまずき、敢えて弟子ひとり一人の足を洗い始めました。そしてペトロのところに来た時、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか(6節)」とペトロは訊ねます。すると主は、「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる(7節)」、と言われました。「後で」とは、今御自分の目の前に迫っている十字架の死と、それに続く復活を経て、弟子たちが聖霊に満たされて全世界に福音を宣べ伝え始めるときのことだと思います。その時にこそ、イエスさまがなぜ苦難の道を歩まなければならなかったか、そしてそれがどんな意味を持っているのか、ペトロは自覚し、力強くイエスさまの福音を伝えていくようになりました。「神のなされることは皆その時にかなって美しい(口語訳)」というコレヘトの言葉311の御言葉があります。辛いこと、悲しいことが日々の生活の中であります。しかし、最善のことをなさる神さまは、「今はわからないが、後でわかるようになる」という「時」を備えてくださいます。しかしまだこの時点では、ペトロは「私の足など決して洗わないでください(8節)」といいます。先生であるイエスさまに足など洗って頂いては申し訳ないという気持ちから出た言葉でしょうが、イエスさまに足を洗って頂かなくても自分で自分の足は洗えますと言う思いがあったのでしょう。人の目には、謙虚に見えても、神さまに対しては大きな傲慢です。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる(8節)」。二千年前のイエスさまの十字架の死と今の私たちをつなぐものは、私自身の罪です。自分の罪を認める人にとってイエスさまの十字架の死は、過去の出来事ではなく、今の私の罪を贖う死と復活なのです。これほどまでに私たちを愛し抜かれたこと、そして神さまの愛に生かされていることに感謝し、同時にこの感動感激を、またイエスさまと私のこの関係を、自分だけのものとするのではなく、私の隣りびと、友人、家族にも伝えていく者になりたいと願います。

内田一郎

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2013年10月20日  (過去メッセージのリンク)
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