『「信仰」と「愛」の評判』フィレモンへの手紙4~7

パウロは、フィレモンに「祈りの度に、あなたのことを思い起こす」と書いています。パウロは、イエスに倣ってよく祈る人です(6)。イエスもパウロもどうしてよく祈り、祈ることを勧めるのでしょうか。それはハッキリしています。「祈りは、大きな力があり、効果をもたらす」(ヤコブ516)。換言すると「祈りは聴かれるから」です。大切なことは、祈りの聴かれ方で、それはワンパターンではありません。
 一つは、「祈った通りのもの」が比較的早く聴かれるパターンです。

 次は、「時間を置いて聴かれる祈り」です。
 三番目は、「求めたものと違った内容・形で応えられる祈り」です。パウロの場合が参考になるでしょう(コリント第二12710)。

 最後は、「否定的応答」です。
 パウロは、フィレモンの『信仰』(5.6.)と『愛』(5.7.)の評判を聞いて「大きな喜び
と慰めを得た」と書き、更に、「元気づけられた」とも書いています。大切なことですが、その「信仰」の内容が問題とされます。悪霊さえも信仰を持っているとヤコブは書きます(219)。パウロが喜ぶのは、フィレモンの信仰は「主イエスに対する・・信仰」(5)であるからです。
 そのイエスというお方は、どのようなお方なのでしょうか。 パウロは、ローマ3: 23~26で、このようなお方であると紹介しています。
 私たちは、罪人であって滅びを免れない者であること。
 そのような私たちを救うために、神の子であるイエスが贖いの業を成し遂げて
  くださったこと。
 その贖いの業とは「イエスの十字架の出来事」であること。
 救い主であるイエス・キリストを信じることによって救われること。パウロがフィレモンの『愛』を喜ぶのは、単なる優しさとか親切心などからでなく、イエスの恵み(十字架の出来事)に対する応答、報恩としての『愛』だからです。オネシモに対する赦し、和解もそこに立って欲しいとの願いなのです。
                                         

(田中仁一郎)

2013年10月13日  (過去メッセージのリンク)
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