「ひとりのみどりごが」 イザヤ書9:5~6

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(95)

預言者イザヤは大国から侵略され絶望的な状況の中にあるイスラエルの人々に、救い主の到来を伝えました。驚くことに、与えられる救い主はみどりごであること、そしてそれは既に生まれている(完了形で記されている)と言うのです。あまりにも大胆なこの預言は、ルカの降誕物語にわずかに現れるだけで、新約聖書の他の箇所に引用はありません。

ナザレの小さな町の婚約者二人に神は天使を送って神の企てを告げました。マリアの受胎は常識的に言えば絶望的な結果を二人にもたらすことでした。しかし、天使の言葉をヨセフはすぐさま信じてマリアを妻として迎え入れ、マリアは信じて出産に備えました。信仰は神の約束の先取りです。O.チェンバースは「私たちが求めるべきは神の約束ではなく、神そのものである。」と語りました。それは、神の約束は既に実現していると信じることが信仰であることを表しています。

赤ちゃんの微笑みは私たちの心を暖かくしてくれます。偏見や差別心もなく、評価や比較もできない赤ちゃんは無防備で他者に依存しなければ生きていけません。しかし、赤ちゃんは何もできないのに、受け入れられる喜び、そのままで赦されている安心、共に生かされている共感を与えてくれます。神さまは全知、全能、不死の身を捨てて最も弱い存在として私たちの世に来られたのです。それは、私たちが神さまの救いのご計画を信じ、その業に加わるためでした。

「権威がその肩にある。」 幼子の肩にあったものは、この世の権力や支配力ではなく、この世に生きる私たちすべての者たちの罪の重荷、苦難や悲しみを負う権威でした。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(534)とイザヤは救い主が人のすべての罪を負う権威を持っておられることを証ししたのです。みどりごによる救いは、この世の力によるのではない神の愛と慈しみによる救いを意味し、信じる者をその宣教の業に招いています。

 

 

2012年12月23日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)