「光の誕生」 ヨハネによる福音書1:10~13

アドベント(待降節)は、教会の歴史の中で、信徒やバプテスマ(洗礼)予定者たちとが救い主の到来を、断食と悔い改めをもってお迎えする行事として守られるようになりました。今日、私たちもまた、主イエスへの信仰を新たにし、新しい一年を主に期待し捧げる思いをもってクリスマスを迎えます。

ヨハネは、イエス・キリストを「言」「光」「命」と表現しました。私たち人間のジレンマは、物事を自分の目で見なければ信じないという悲しさにあるのだと思います。だいぶ前のコマーシャルで「心は誰にも見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える。」というのがありました。ヨハネは言います。「言は世にあった。世は言葉によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(1:10,11) クリスマスの出来事の要点は、神様が人となり、私たちを罪から救うために世に来て下さった、ということです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること。」(ヘブライ11:1) とあります。信仰とは、どう言い換えても、神の救いの働きから生まれ、私たちに感謝と喜びを与えてくれるものなのです。

「キリストの愛から私たちを遠ざけるのは、自分を実際の自分よりも良い者だと思い込もうとしてそれがうまく行かなくなると自暴自棄におちいる私たちの傲慢である」と言った人がいます。自分に多くの期待をしすぎ、自分が見えなくなることが罪なのです。人は自分が見えなくなると何をするかわかりません。神はご自身が義と聖と愛であられることを、私たちの罪への怒りによって見失うことはなく、キリストにあって信じる者の罪を無きものとされました。

「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1:12) イエス様は私たちと共にあります。今、世界は怒りと不信とに満ちています。そして、神と自分とを見失っています。その世界に向かってイエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招いておられます。イエス様を認めず受け入れない人々こそ招かれています。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)イエス様ご自身に神を見ます。

2012年12月16日  (過去メッセージのリンク)
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