「収穫の喜び」
申命記24:19~22

イスラエルでは穀物の収穫とぶどうなどの木の実の収穫は呼び方が違います。そして、収穫ごとに過ぎ越しの祭り(4)、七週祭・五旬節(5)、そして仮庵の祭り(7)を行います。これらユダヤの三大祭りの原点は、出エジプトの体験にあります。神が、民を苦しみの生活から救い出し、故郷カナンに連れ帰ってくださったこと。奇跡の脱出、荒野で昼は雲の柱、夜は火の柱として民を導き、天からのマナ、うずら、岩清水をもって養ってくださった神をおぼえたのです。収穫への真実の感謝は分かち合いによって表され、自然との共存、人権と生存権の尊重に神の祝福が宿ることを教えました。神は収穫の神というだけでなく、行いによらない信仰による魂の救い、被造物の贖いをもたらし祝福する神であるということです。

「畑で穀物を借り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに行ってはならない。」人は欲深いものです。自分で労さず得たものでさえ全て自分のものにしてしまいたいという欲があるものです。神はそれをお喜びにはなりません。「それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。」とあります。与えられた恵みを独り占めにせず分かち合う時、すべて主の業になると言うのです。弱い立場、困窮する人々はお返しすることができません。見返りを求めぬ神の愛は、私たちが神の恵みに具体的に応える時そこに示されます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

「エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うよう命じるのである。」既に救われ恵まれている者として生きよ、と主は命じられます。わが身を知る行動に神の祝福の約束が伴います。

被災地では、復興への様々な取り組みが成されています。しかし、刈り入れても市場に出せない作物、物産品を抱えた福島の方々を私たちは覚える必要があります。収穫の恵みを当たり前のように享受してきた私たちが自分たちの豊かさがどこから来て、どのようなプロセスを経てもたらされているかを知ることは復興への足がかりであり、主にある新しい社会作りへの原点になることだと思うのです。

2012年11月25日  (過去メッセージのリンク)
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