「赦されて」  マタイによる福音書182135

ペトロは主イエスに質問しました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロには、どうしても赦せない人がいたのでしょうか。イエス様は言われました。「七の七倍まで赦しなさい。」それは、人間の寛容の限界と神の無限の赦しの違いを明らかにする言葉です。追記される「仲間を赦さない家来」のたとえは、返済不可能な負債を赦し得るのは主君の「憐れみ」すなわち「恵み」によるほか無いことを表します。しかし、この家来は仲間(同僚:同じ身分、境遇にある者)のわずかな借金を赦しませんでした。どうしても赦せない相手の罪、それが自らが神に負っている払いきれない罪と同じなのです。イエス様は十字架の上で「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました(ルカ19:30)。「完了した」というこの言葉は「支払い終わる」という意味で、霊的負債の束縛からの開放を表します。

「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」人間関係のしがらみの中でこそ、主に共にいていただくことが大切だと思います。人間の限界ある忍耐や寛容では通用しない現実の中で、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12,13)と罪を自覚する全ての者たちが必ず癒されるイエス様のもとに共に集うことが大切だと私は思います。

パウロは言います。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32) ここで言う「赦し」には「カリゾマイ:恵みを与える」という言葉が選ばれています。自分が与っている赦しの恵みを相手と分かち合う決心が求められています。

「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちもわたしたちの負い目を赦しましたように。」 人の罪を赦せるように、主よどうか弱いわたしたちの罪をお赦しください。私たちが、赦し、赦されて生きられるよう憐れみ助けて下さい。

2012年11月18日  (過去メッセージのリンク)
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