「わたしは何者でしょう」 出エジプト記 3:6~12

あるとき、主はモーセに現れ、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(39,10といわれました。もう80歳になろうとするモーセは、いまさら何が出来るというのか、しかも数百万人ものエジプトで苦役を強いられている同胞をどうやって私が助けだすことが出来るというのか、勘弁して欲しい、そう思ってモーセは神さまに言います、「わたしは何者でしょう。」(311)。そのモーセの問いに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる。」(312)と主は答えます。納得しないモーセは、その後も神さまの命令を断りたいため言い訳を何回も繰り返します。

モーセの質問は、「わたしは」「わたしは」いつも自分の才能、能力、経験が中心です。これに対して神さまの答えは「わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたを遣わす」「わたしは奇跡を起こそう。」神さまの視点はいつも神さまです。

私たちも、自分の力に頼って、神さまの声から耳を遠ざけてないでしょうか。神さまは私たちの才能や、能力、健康状態、経済状況、生い立ちなどすべてご存知の中で、私たちに語りかけ、私たちを用いようとなさいます。神さまはすべてご存知です。

しかし、神さまが知らないことがあります。それは、全能の神さまを私たちが信じるか信じないかです。それは私たちが決めることです。

「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」(エペソ2:10とあります。善い業をするように既に備えられています。もし神さまの声を聞かないなら、善い業も出来ません。

神さまの声に耳を傾け「わたしを用いてください」と委ねていくことを神さまは求めておられます。私は何者かを知りたいとき、神さまがどういうお方かを知ることが大切です。私は誰なのか、私は、神さまが私を救うために、ご自分の御子、イエスキリストを十字架につけたほど愛されている人間だということです。それほどまでに愛してくださる神さまに信頼し、委ねていくとき、道は開けていきます。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ4110口語訳)        
 
(内田一郎)

2012年11月11日  (過去メッセージのリンク)
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