「主を待ち望み」哀歌3:22~24

 栄華を極めたイスラエルとその都エルサレムが今、著者の目には「ああ!」と嘆息するほどの荒廃の中にありました。著者は単なる悲しみではなく、神に見捨てられたのではないかとさえ思う深い絶望を、5部構成の文章の中に整然と書き連ねます。そして、その真中に主にある信仰告白と希望とを記します。

「主の慈しみは決して絶えない」

彼らが苦しんだのは彼らの罪によるものでした。それは、神に落ち度はないこと、むしろそこに神の慈しみがあり、苦しみの中に深い意味をお与えになる神を証しします。VE・フランクルは「人生には意味が存在する。その人生の意味はすべての人間に開かれている。・・最後の一息まで、意味で満たされている。」と言いました。意味を見出せない苦しみにこそ、主の慈しみが注がれ続けています。

「主の憐みは決して尽きない。」

人生の中では、人は物理的にも精神的にも壊滅的な被害を受ける事があります。しかし、主の憐みは尽きないと言います。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」 主は苦しむ人のうめきをご自身の腸(はらわた)を痛めながら聞き続けてくださると言うのです(詩編130:1)。

「それは、朝ごとに新たになる。」「あなたの真実はそれほど深い。」

毎朝開く朝刊に心暗くする記事は多いです。そして、自分の身の上、身の周りで起こることは辛いことばかりで切ないものばかりかも知れません。「神の憐みどころか、朝ごとに与えられるのは苦しみばかり」と私たちはつぶやくかも知れません。しかし、イスラエルの国がそうであったように、壊滅的に見え、絶望する状況としか思えない所にこそ主の慈しみ、憐みは神の痛みと共に臨在するのです。

「主こそわたしの受ける分」十字架のイエス様こそわたしたちが受け継ぐ財産です。わたしたちの魂は主を求め、主を待ち望みます。苦しみと死を越えて復活し、新たな命に生きる力を主イエスは私たちに与えてくださるのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ローマ8:32

2012年11月04日  (過去メッセージのリンク)
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