「私たちのかなめ石」 ペトロの手紙一 2:1~5

 「主イエスのもとに来る時、主は私たちのかなめ石となってくださる。」

この手紙は、イエス・キリストにある救いに与った、特に小アジアに離散した人々に送られました。ペトロは、キリストにあって新しく生まれた人は、神の財産を受け継ぐ者とされていること、そして赤ちゃんがそうであるように霊においても成長する必要があることを告げました。現実社会での信仰生活はそう簡単なものではありません。「霊の乳」とは「聖書の言葉」です。主のもとに「来なさい」と言う言葉は聖書の中で1700回以上用いられ、信じる者に「忠実さ」を求めます。それは、私たちが、霊において飢えず成長するための最初で基本的な神のご命令です。主に信頼し従う時、呼んでくださる方は日本の建築用語で言えば家の「大黒柱」、家を完成させる不動の柱となってくださるのです。誰が私たちのかなめの石、大黒柱となり得るでしょう。それは、不信心な者のためにさえ死んでくださったイエス・キリスト(ローマ5:6)に他なりません。

 「主がかなめ石なら、私たち自身が神の家として造り上げられていきます。」無計画に建物を建てる人はいません。信じる者を暗闇の中から驚くべき光の中へと招いてくださった神は、そのわざを伝える者として私たちを尊く用いられるのです。人生の様々な出来事、人間関係の問題の中でその中心にイエス様を据えるならば、たとえこの世的な解決が与えられなくても決して失望することはないのです。

 「神の家として造り上げられるために、信仰と行動の調和が必要です。」それは、クリスチャンは、聖人君子を目指さなければならないと言うことではありません。「立派に生活しなさい」という言葉は、尊敬されるようにとも言えますが、「美しく」という意味もあります。「家を建てる者の捨てた石」がイエス様ご自身でした。とても美しいとは言えない救い主の姿、十字架に架かり無残な死を遂げられた主の姿、しかし神はそのイエスを復活させられました。そのイエスに希望を置くこと、この世の現実に嘆き悲しんで終わるのではなく、忍耐して(神の側に立ち続けて)生活することが求められているのではないでしょうか。「そうすれば、人々は悪人呼ばわりしてはいても、その生き方を(詳しく目をこらして)見て、(主の)訪れの日に神をあがめるようになる。」と言うのです。「信仰がなければ神に喜ばれることはできません神に近づくものは、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」(ヘブル11:6) 主イエスとその約束とを土台とすること、それが調和の要と言えます。

2012年10月28日  (過去メッセージのリンク)
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