主よ、あなたでしたらマタイによる福音書14:2233

  湖上を歩くイエス様の出来事はマタイ、マルコ、そしてヨハネによる福音書に記録されていますがそのどれもが五千人の給食の奇跡の後に起っています。その目的は、イエス様が「神の子」である信仰告白に弟子たちを導くためであったようです。マタイだけがそこにペトロの信仰体験を加えます。先立つ8章は、嵐の中の舟上で「風と湖とをお叱りになる」イエス様と信仰の薄い弟子たちの姿を対照的に書き表します。強いて向こう岸に送られた舟上の弟子たちは逆風に悩まされていました。そこに、後から湖上を歩いてイエス様が来られました。文脈から、イエス様は彼らの危機を助けるために歩いて来られたのではなく、向こう岸へ渡ろうとしておられただけのようです。マルコによれば、「そばを通り過ぎようとされた」だけだったようです。それを見た弟子たちは波風よりも湖上を歩くイエス様を見て恐れました。イエス様はすぐに「安心しなさい。わたしだ(わたしはここにいる)。恐れることはない。」と弟子たちに話しかけられました。

 信仰は、そこに少しでも疑う心が入り込むと沈んでしまいます。ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」とイエスに願いました。信仰の主体が自分にあるのでなく、イエス様にあることを思わせます。しかし、強い風に心が奪われた時、ペトロはイエスから目を逸らし、沈みかけました。ペトロは「主よ助けて下さい。」と叫び、イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕えて下さいました。

 「イエスを神の子と信じる信仰」それは、とりもなおさず、イエス様の言葉を生きる信仰、信じ従って自分自身の生き方を検証していく信仰。そしてまた、神の子が人の策略や裏切り、この世の力の前に無力となり無残な十字架の死を味わわれたこと、しかし、イエス様の従順ゆえに神がイエス様をその死から甦らせられたことを信じる信仰と言えます。

 「主よ、あなたでしたら」と信頼し、私たちは私たちの逆境に挑んでいくことが許されていると私は思います。そして、たとえ失敗しても率直に助けを求める私たちの腕をイエス様は確かに捕え助けて下さると信じます。

2012年10月14日  (過去メッセージのリンク)
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