「命の門」 ヨハネによる福音書10:7~10

 旧約聖書は象徴的に、人間と神様との関係の始まりを描きます。創造の初めには神と人は顔と顔とを合わせて交わりを持つ関係でした。しかし、罪が入り込むとその関係が絶たれます。アダムとエバが、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれました。「どこにいるのか?」その時以来、人は、神の呼びかけによらず神を知ることのできないものとなりました。聖書の中で、キリスト・イエスの名は、その損なわれた神と人との関係の回復をもたらす名として予告され、イエス様ご自身によって自覚されたものです。                                                                                                                                                         

 イエス様は、その名にともなう業により多くの人々を癒し、罪の赦しと解放とを宣言されました。しかし、「生まれつきの盲人のいやし」を通して、宗教指導者たちとの対立は鮮鋭なものとなり、彼らの偽善はイエス様によって暴かれます。

 「わたしは羊の門である」 イエス様は明確に、わたしを通って(囲いの中に)入る者は救われ、門を出入りして牧草を見つけると語ります。イエス様が来られたのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであり、囲いは彼らを安全に守るためのものです。イスラエルにとっての囲いは神との約束の戒め、律法でした。主イエスはその門、羊が自由に出入りし命を得るための門です。

 今、世界では「目には目を、歯に歯を」との暴力の声が騒音のようにこだましています。イエス様は「手向かうな」「敵を赦しなさい。敵を愛し・・祈りなさい」(マタイ5:38)と語ります。主イエスを信じるものたちは、敵のためにさえ死なれたイエス様にあって、憎しみあったり復讐心に囚われたりする必要はありません。「愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはならない」(ローマ13:8)とパウロはイエス様の言葉に律法の完成と圧倒的な自由とを見出しています。

 主イエスを信じる人は、浮世離れした人ではなく、この世の楽しみに無節操に同調する人でもないと思います。また、信仰熱心なあまりこの世から離れて生きる狭量な人でもなく、そのような人を見下す人でもないと思います。ただ、主イエスと共に生きたいと願う人は、世間受けすることを断念し、主に倣うことを選び取る人ではないでしょうか?神の庭の門となってくださったイエス様を通って真実と現実の間を、喜びと自由とをもって行き来する人になりたいものです。

2012年9月23日  (過去メッセージのリンク)
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