今が青春」 イザヤ書40:27~31

 「神に従う人はなつめやしのように茂りレバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。」(詩編92:13,14) この賛歌は安息日のための歌、イスラエルの民が捕囚の(奴隷として他国に連れ去られる)苦難の果てに帰還し、神殿を再建した折に歌われたものだと言われます。

 本日のメッセージの箇所は、それに先立つユダの王と民の絶望的な経験、決定的な敗北(エルサレム陥落:紀元前587/586)に向かっていた民に与えられた希望の言葉です。「失望したいなら人を見よ、絶望したいなら自分を見よ、しかし希望を持ちたいのなら主イエスを見上げよ。」という言葉があります。人生にはどうしても立ち止まったり、うつむいてしまうような出来事があります。それは、起こる出来事が自分の手にあまり、解決不能だからだと私は思います。

 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」と、バビロンへと全てのものが運び去られるという厳しい告知の後、イザヤ書40章は救い主到来を告げ知らせます。人の力、王の力には限界があります。しかし、今、優れた王も、人が作った神々も及ばない王が来るとイザヤは語ります。私たちは、創造主なる神よりも、目先の豊かな収穫や大地の恵みを与えてくれる神々や、実際的に生活の糧や楽しみを与えてくれる企業や国家の政策に寄り頼んではいないかと自問します。しかし、イザヤは私たちの魂の救いの原点となる「新しい力」に目を向けさせます。

 多摩全生園の昨年天に召された山内定さんは語りました。「ハンセン病が奪ったのは手や足ではない。奪ったのは偏見や差別による生きる意志であり、生きる望みであった。」しかし、晩年、「この世に生を受けて良かった・・どんなに体が不自由でもなんでもやりたい。いまが青春!」と人生を謳歌されました。主が中心にいてくだされば私たちは新しい力により、絶望の時にも「今が青春」と主にあって言うことが可能となるのです。

 「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」悲惨と絶望の極致である十字架で殺され、その死を超えて甦られたイエス様が言われます。「明日のことは煩うな、神はすでにそこにおられる。」(マタイ6:34)

2012年9月16日  (過去メッセージのリンク)
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