「祈りの家」  イザヤ書56:1~8

当時、イスラエルの民はアッシリアそしてバビロニアの手に落ち、捕囚生活の苦しみの中にありました。主の名によって栄華を極めた国から、他の神々に仕え、神殿さえも、王国復興の希望さえも無くした国民となってしまった人々に神は語りかけられました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道とは異なる・・天が地よりも高いように、私の道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(558)と。

 ご利益宗教のことを「晴れの日の宗教」と言った人がいます。自分の願いを叶えてもらうだけの信仰は晴れの日の信仰と言っているのかもしれません。真の神は私たちとの人格的な深い関係を求めておられます。マルコ福音書11章によれば、イエス様は、エルサレム入場の時「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と歓迎されました。しかし、あくる日、イエス様は神殿の境内で、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返して言われました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家とよばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」イエス様は、その民が神との真剣な関係になく、おざなりの関係、儀礼的な関係、神を利用さえしていることに憤られたのです。彼らを単なる「どろぼう」ではなく「強盗」とさえ表現されました。世の中、未知なる偉大な存在を信じているが、その名にはこだわらない、と言う人もいます。しかし、自分ではどうにもならない苦しみ悩みの日に呼べる名があるのは幸いです。聖書には苦しむ者が呼ぶに価する堅固な名があると言います(箴言1810)

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家」

教会はまた信徒だけのものではなく、苦しみ悩みにあるすべての人の安息の家です。神はキリストにあって、すべての者の苦しみ悩みとともにあり、私たちの祈りを執り成してくださいます。たとえ置かれた状況をすべて理解できなくても、直ぐに解決に導かれなくても、生きている間に解決できなくても、そこに確かに深いお考えをもって働く神がおられます。主はその名を信じるすべての人の祈りの家となり、更に加えて集めて下さると約束しておられます。

2012年8月25日  (過去メッセージのリンク)
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