「究極の話ですが」  マタイによる福音書20:1-16

 ぶどう園のたとえ話では、夜明け前から一日中働いた者と、1時間しか働かなかった者とが、全く同じ報酬だったという一見不公平な賃金の支払いのことが語られています。

 不公平といえば、この世の中を見まわしてみても、不合理、不条理なことはたくさんあり、枚挙のいとまがありません。

 3.11では、多くの善良な市民の命が失われ、楽しい家族が引き裂かれました。Hibaの荒井えりやさんは伝道師として尊い働きをしていたにもかかわらず、若くして天国へ召されました。まだまだ神様のことを伝える大切な使命があったのに、なぜこの若さで・・・と思ってしまうものです。

 しかし、ぶどう園のたとえであるように神様は働いたみんなに均等に報酬を払いました。働きの長さに応じての報酬の多い少ないではなく、誰も同じ永遠の命という報酬を与えられたのです。

長寿ニッポンの私たちは何歳まで生きたかということを問題にすることが多いですが、生きた年数ではなく、その人が永遠の命をいただいているかということを問題にすべきではないでしょうか。

残念ながら、ぶどう園で働かなかった者は、報酬、つまり永遠の命を与えられなかったということを忘れてはなりません。

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)

私たちはどんなに富を得たかではなく、どれだけ長生きしたかではなく、永遠の命を与えられたその恵みを確信して、今もそしてこれからも、たとえどのようなことがおころうとも感謝して歩みたいと思います。

「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマの信徒への手紙14:7-9)

2012年8月19日  (過去メッセージのリンク)
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