「生かされていく力」 サムエル記上165b7

 主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 イスラエルの初代王サウルはまさに美しい若者で・・民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった(92)と語られています。しかし、彼は主に背き退けられることになります。サウル王在位中に次期王を選ばなければならなかった預言者サムエルは内密に人選に赴きます。そして、ダビデに辿りつきます。ダビデは少年で背も低かったと思われますが、血色が良く目は美しく、姿も立派でした。また、戦士で音楽家、弁舌にも長けていたようです。主の言われる「容姿や背の高さ」とは外見だけでなく才能や周りの評判も含むと思われます。それらの特質は天分でもあり、努力によってもたらされ人に評価されるものと言えます。しかし、「心」はそれらをお与えになった方への姿勢や態度であり、主が見抜かれたダビデの特質は主に生かされていく力に長けていたということです。

「純粋に神を信じた」 ダビデはゴリアトとの戦いの時にも形勢不利な条件を主にあって有利と考えました。神への信頼は、ゴリアトの巨大さを逆に大きな的と捉える視点を生みました。外見の弱点や短所を長所とし、劣等感を正しく自分自身を尊ぶ心に変えさせるのも神に信頼するところから始まります。

「失敗した時に徹底した悔い改めを行った」 ダビデは偉大で忠実な王でしたが、姦淫の罪、殺人の罪を犯し(サムエル下11)、人口調査という高慢の罪を犯し(サムエル下24)ました。しかし、彼は深く悔い改め、同じ罪を繰り返すことはありませんでした。それは、ダビデが主なる神は大胆に赦すことのできる寛大な方であることを率直に信じたからです。「神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。」(詩編51)

「感謝の人であった(サムエル下22)」 いつも主の喜びに生き、信頼の祈りを捧げ、どんな時にも主に感謝して生きたダビデを主は「わたしの心にかなった者(使徒1322)」とし、救い主イエスを「ダビデの子」と呼ぶことをいとわれませんでした。主は信じる者を生かしてくださる方であることを信じて歩みたいものです。

2012年7月22日  (過去メッセージのリンク)
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