「魂のリセット」 ローマの信徒への手紙1212

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「人間、価値があるから生きているんじゃなくて、生きているから価値があるんだ。」と言った人がいます。石をいくら磨いて光らせても石ですが、宝石はいくら汚れていても宝石です。神学者のJ.バークハート教授は「私たちが生きている社会は、ほとんどすべてのものの価値が『それは何の役にたつか』という尺度によって測られている社会である。・・私たちの中の多くの者は、この世は『役にたつもの』と『役にたたないもの』」の二種類に分類できると考えている。」と指摘します。私たちが真の神なる主を「礼拝」する時、神が私たちを「役にたつか否か」ではなく、イエス様を通して宝石としてくださっていることに気が付きます。

旧約聖書の「礼拝」には「集まり、出会う」という意味があります。単なる集会ではなく、集まり神に出会う出来事が礼拝です。新約聖書によると、礼拝は「民の仕事」とさえ考えられ、礼拝することで私たちの価値観を神の価値観にリセットすることと考えたのです。パウロは、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされるが、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくてもその信仰が義と認められると語りました(44-5)。礼拝者はイエス様の恵みによって価値ある者とされ、真の礼拝者とされていきます。

「自分の体」をユダヤ人は捧げる必要はありませんでした。犠牲とは代わりのものですからそれでよかったのです。しかし、パウロは、苦難に生き、死に渡されたイエス様が復活させられたように、私たちもイエス様を信じてイエス様のように自分の体、すなわちすべてを神に献げるときイエス様の命に与ると言うのです。「献げる」という言葉の元々の意味は「~の側に置く」という意味です。他でもない、弱さも恐れも不安がある自分自身を神の側に置くこと、それが私たちが求められているなすべき礼拝です。教会は礼拝を通して神の側に立って生きる人々を生み出していく所、共に真の礼拝者として育てられていく所です。

2012年7月15日  (過去メッセージのリンク)
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