イエス様だったらフィリピの信徒への手紙21216

 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」

獄中から、自由を奪われ、死と隣り合わせにあった人とは思えない明るさで語る使徒パウロの言葉です。彼の人生の工程表は、イエス様との出会いによりすっかり変えられてしまいました。イスラエルの最高議会議員へのエリートコースを歩んでいたサウロ(後のパウロ)は、燦然と輝く経歴がありました(35,6)」。彼は、当時の時代にあっては有利であった履歴書を破棄するどころか、「廃棄物」とさえ表現しました。人生の工程表の着地点と神に対する姿勢とが変わりました。

人にはあれがしたい、これをやってみようという「願い」が起こされますが、それが皆善いものとは限りません。大切なのは時代を見分ける力です。イエス様は「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。」(ルカ12:56,57)と言われました。パウロは、当時の世界を「よこしまな曲がった時代」と表現しました。もともとこの「時代(generationの語源となったゲネア)」という言葉は「生れてこの世に生きている人々」を意味し、「この世を作っているのは私たち一人一人」という自覚を促す言葉でもあります。キリスト者もまたその時代の内にあり、時代を批判していれば良いということではありません。むしろ、その時代に聖なる生き方をすることよりも先に、主にある信徒の一致が大切です。主にある一致を通して、善いことのために動機を与えるのも、それを成させるのも神であることを教会は世に証ししていくのです。その結果が善い働きです。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(26,) 「何事も、不平や理屈を言わずに」とは、信じている者同士のつぶやきと言えます。人間関係には闘いがあります。「イエス様だったら」こんな時どうするだろう・・。罪人の私たちと神様とをつなぐために葛藤されたイエス様を覚え、死から命に至られたキリストを得、キリストの内にいる者と認められるために、主に問いながら一致して主のみこころを成してまいりたいと願います。

2012年7月8日  (過去メッセージのリンク)
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