「粘り強い祈り」 ルカによる福音書18:1~8

イエス様は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、傲慢な裁判官と、不正に訴えられたやもめのたとえを話されました。

人生の中で起こる困難や試練は私たちに祈ることを諦めさせる誘惑をもたらします。しかし、イエス様は信仰によって生きる者は全てのことにおいて諦める必要がないことを教えて下さいます。神は信じる者の祈りを必ず聞いていてくださるからです。答えは遅くなるかも知れませんがそこには神のもっともなる理由があります。そして、遅くなるのはより良い答えが用意されているからに違いありません。

粘り強く、諦めない祈りは、果てしなく痛々しいほどに繰り返される呪文のような祈りではありません。「思い煩わないで、神の国を求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ12:22-31)との約束を信じて日々を生きるように、誠実な神様を信じて心変わりなく願いと思いとを注ぎ出し続けることです。神に信頼する祈りは人を人格的、信仰的に成長させ、粘り強くし、希望を生みます。パウロが「苦難は忍耐を、忍耐は練達(練られた品性)を、練達は希望を生む」(ローマ5:3-5)と語るように。

「粘り強さ」それが、社会的に無力で弱者であったやもめの最大の武器でした。神を畏れず、人を人とも思わない傲慢な裁判官は、彼女の五月蝿さで疲れ果てることを恐れました。身の危険や人の評判を、ましてや神を恐れたのではありません。イエス様は、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と言われました。それは、神はこの裁判官のような不正な方であるとか、私たちが五月蝿く求めさえすれば、神様は助けたくなくても答えて下さるという意味でもないことは明らかです。神は不正な裁判官と違い、神を信じ日夜叫び求める者たちに速やかに正しい裁きを行われる方です。しかし、私たちに神が求められることは、心変わりなく神に信頼することです。「やもめは裁判官のところに来る度に」訴えました。

信頼の祈りに誠実に答えられない神は神ではないと言えます。誰も神の誠実を疑うことはできません。「しかし、人の子が来るとき(主イエスの再臨の日)、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」とイエス様は言われます。いや、だからこそ神は現実の厳しさの中にあって叫び求める人々に真実であり、その神を信頼する粘り強い信仰を求めておられるのだと思います。

2012年6月10日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)