不確実な時代に」 コリント第二の手紙10:13

主は私たちに選択の自由を与えてくださる神様です。ヨシュアは、40年の荒野の旅の末、イスラエルの人々は約束の地カナンを前にして、人々に自分たちが仕えたいと思う神を自分で選びなさいと問いかけます。民は主を神とし、主の奇跡を体験した長老たちの存命中、主に仕えました。しかし、異邦の民と交わる中でイスラエルは、彼らと同化し、主なる神から離れて行きました。

「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(申命記5:9)主は約束を守る方で、民が選んだことを確実に果たす誠実な方です。決して一方的で理不尽な方ではありません。使徒パウロは、コリントの教会を正しい信仰の道に導くために、キリストにある新しい生活に生きることと、その生活には試練が伴うが救いの約束が必ず成ることを説きました。彼らが信仰に生きることには葛藤があったに違いありません。放縦な生活、異教の神の崇拝とその習慣から抜け出すには大変な苦労・試練があったに違いありません。出エジプトの例えは洗礼と聖餐を象徴し、それを受けながらも滅んで行った者たちからの「時の終わり」に生きるコリントの信徒への警告であったのです。終わりの時代とは、歴史の終わりではなく、キリスト・イエスにある恵みによる救いの時代が既に到来していることです。これからではなく既に赦され愛されている者として生きることが求められている時代のことです。

救われた者として生きる者にも試練はやって来ます。理不尽で意味の分からない苦しみに私たちは直面するかも知れません。しかし、思い出さなければならないのは、主は約束を確実に守るお方であることで、その主を信じることです。「人間的(な試練)以外の試練があなたがたを捕えたことはない。神は真実(な方)である。その神は、あなたがたが(耐え)得ないような仕方で試練に会うようにはせず、むしろあなたがたが(それに)耐えることができるために、試練とともに出口をも造って下さるであろう。」(岩波訳) 主にあって出口のないトンネルはありません。不確実な時代、頼るべき方は光である主イエスと、その主に従っていく信仰を固く持つことです。主にある試練はあるいは、解決への近道なのかもしれません。

2012年6月3日  (過去メッセージのリンク)





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