「主を仰ぎ見る人」 士師記7:1~


何時の時代も人々は自分の国のための良いリーダーと理念を求めます。イスラエルの人々も、エジプトを脱出し故郷カナンに帰還し、モーセに続くリーダーであったヨシュアの後継者を主に求めました。しかし、主なる神の願いは、イスラエルを通して「人間の国家」ではなく「神の国」を造ること、「人」が主となるのではなく、「神」が主となられる国を造ることでした。不条理で理不尽な世界にあっても尚、主なる神に信頼し、委ねて生きる民。苦難に遭ったとき、自分の感情や感覚、考えを中心にではなく、苦難の中に共におられる主を中心にする国民を求めておられました。しかし、民は目に見えぬ神よりも目に見える王を求めました。部族の集合体であったイスラエルの民はまだ王を持つには早く、主は民の願いに譲歩して部族の中から士師(裁き司)を立て、イスラエルを支え続けられます。


ギデオンは士師の一人、主の前に悪を行っていた民にミディアン人の脅威が及んだ時、主が選ばれた人でした。ギデオンは主の選びを恐れ言い訳し主を試します。しかし、奇跡を体験したギデオンは民を集め、いなごの大軍のようなミディアン軍(135,000人)に挑もうとします。主は言われました。「多すぎる」。残った一万人の中から選ばれた民は水辺の水を膝をつかず手ですくって飲んだわずか300人でした。それは自分の手で勝利を勝ち取ったと言わせないためでした。


「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(詩編33:12)とあり、「王の勝利は兵の数によらず勇士を救うのも力の強さではない。・・見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」(33:16-18)と詩編は語ります。星野富弘さんの詩に「あなたは私が考えていたような方ではなかった。あなたは私が想っていた方からは来なかった。私が願ったようにはしてくれなかった。しかし、私が望んだ何倍ものことをして下さった。」とあります。障害者となり苦しみのどん底で星野さんは慈しみと憐みの主に出会い、主を仰ぎ見て生きる新しい人、幸いな人に変えられました。

イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:14)と宣教し、主を神とする国に私たちを招かれたのです。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩編34:6) 今、私たちは十字架と復活の主を見上げます。

何時の時代も人々は自分の国のための良いリーダーと理念を求めます。イスラエルの人々も、エジプトを

 

2012年5月6日  (過去メッセージのリンク)





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