全てを救う力ローマの信徒への手紙1:16、17

「全ての道は、ローマに通ず」という言葉がありますが、使徒パウロは、当時世界を支配していたローマ帝国を、キリストのものとするために働き続けた偉大な使徒、キリストの僕でした。それは、とりもなおさずイエス・キリストにある救いがユダヤ人に限らず全ての人々に与えられる大規模な神のご計画であることと、パウロがそのご計画に召されていたことを意味します。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)と確信をもって人の救いの道がイエス様ご自身であることを説いたパウロの力は十字架の言葉から出ていました。

「わたしは福音を恥としない。」

「名と恥」の文化を持つと言われる私たち日本人にとって、「恥」は感情的なことだけでなく不面目、不名誉なことです。しかし、パウロの言う「恥としない」ということは、人の前にではなく、神の前に恥としないことです。律法に生き、罪と義の価値観の中に生きていたパウロは、復活のイエス様に出会って知らされたのです。律法の行い、良い行いを積むことによって救われるのではなく、信仰により恵みによって救われることを。神の義(正しさ)は十字架のイエスの愛の中に示されることを。私たちはどう格好をつけても人の目が気になります。自分の存在や価値を人に認めてもらうために愚かなほど外見や行動で飾りたて、周りの人の反応で一喜一憂してしまいます。福音とは、神様が、そんな愚かな私たちであっても主イエスを救い主と信じる人を恥とされない、むしろ揺るがぬ約束をもって救い続け、支え続け、共にいてくださり続けるという良い知らせです。

福音は、「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力(ダイナマイトの語源になったデュナミス)」です。神の力は「救い」にだけ働くものではありません。単純にキリスト・イエスによって全ての罪赦され救われると信じる時、試練や苦しみの中に神の力が働き始めるということです。人間の目には愚かとさえ見える単純さの中に神の力は働き、弱い者を弱いまま、強い人は強いまま、全ての人の救いのために主は一人一人を召し出し用いてくださるのです。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(1コリント15:10)       

<

 

2012年4月29日  (過去メッセージのリンク)





毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)