田中 仁一郎

 

 「手を差し伸べるイエス」 

信仰生活で大切なことは、<イエスから目を離さないこと>です。
だからヘブライ人への手紙の著者は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(122)と書くのです。「見つめながら」とは、「目を向ける」とか「凝視する」という意味です。現代訳では、この12章2節を「私たちの心をそらすものから目を背け、私たちに信仰を与え、また、私たちの信仰を完成してくださるイエスを仰ぎ見なければならない。」と。

イエスがガリラヤの「ある町」を通られたときのことです。そこで「重い皮膚病にかかった」一人の人と出会います。この「重い皮膚病」については、レビ記13章と14章に詳しく書かれていますが、この病気は病気であるより宗教的汚れと受け取られていたのです。神に裁かれ、神に罰せられた者、不浄な者と受け取られていたのです。だからこの人は、イエスに向かって「癒してください」と言わず「清くしてください」と願うのです。そんなことで、この病気にかかると、家族からも社会からも閉め出されるのです。この病気は肉体的苦痛は勿論のこと、偏見と差別を受け、それと共に、人との交わりも絶たれ、精神的苦痛は極限を遙かに越えたものだったのです。
 この人は、そのようなどん底でイエスを見てひれ伏して叫んだのです。「主よ」と。浅野順一先生は、その著書でこのように書いておられます。「人生には、我々が有らん限りの知恵を絞り、力を尽くしても、どうにも解決の出来ない問題が起こってくるものである。・・」(『詩編選択』)と。「何とかなるさ」という言葉を聞きますし、多くはその通りでしょう。でも、<天災>にしても<老い>にしても、どうにもならないことに私たちは遭遇するのです。浅野先生は、続いてこのように書かれます。「・・そのような場合に、詩編を読むことを勧めたい」と。
 その通りです。加えて、この人がそうしたように、私たちには「主よ」と助けを求め、慰めと力を受ける道が開かれているのです。「主」とは、死に勝って甦り、今も生きて働いておられるお方なのです。     
     

2012年4月22日  (過去メッセージのリンク)





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