「我弱くとも」 コリントの信徒への手紙第二51718

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 

自由市民、ギリシャ人、ローマ市民などが混在する、貿易で栄えた都市、あらゆる商売、宗教があり、不品行、不道徳に満たされた町にパウロは教会を建てました。あらゆる問題をはらんだ教会を万民の救いのために仕える教会とするためにパウロは涙と叱責と励ましをもって関わり続けました。正気でないほどの熱心さにパウロを駆り立てたのはキリストの愛でした。

人に好かれたい、気に入られたいとの動機で生きていると結局人間は自分の正直な心を出せず疲れきって、人はおろか自分も嫌いになってしまいます。「自分が好きになれない」、それも本当は嫌いなものを嫌いと言えない矛先を自分に向けることによって楽になる手っ取り早い問題解決法なのかも知れません。正義感さえも怒りや憤りの本当の相手や理由と向き合うものでなければ、敵意が正義の仮面をかぶって間違った相手に向うだけです。分裂、分派、パウロの指摘するみだら(勝手きまま)な生活も人の不安、弱さの現われなのかも知れません。しかし、神はありのままのわたしたちを知っておられます。パウロの「弱さ」の価値は、キリストの贖いと復活の出来事を知ったことにより、自分中心の視点からキリスト中心の視点、「恵みは弱さの中に完全に現われる」(129)出来事に変えられてしまいました。 信仰もまた、律法を守ることによって神に仕えることから、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることに変えられました。信仰の喜びは、良い行いへの報酬ではなく、信じればだれにでも与えられる賜物なのです。「結ばれる」というのはイエス様の命に接木されること、「創造された」とは改良や修理、リサイクルされたのではなくまったく新しく造り出されたということです。

コリントの教会は、復活の命に与り、世を御自分と和解させるキリストの使者、恵みの管理者として新たに立てられました。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(134) 主にあって、我弱くとも恐れはありません。

2012年4月15日  (過去メッセージのリンク)





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