「誰を捜しているのか」  ヨハネによる福音書201118

イースター、おめでとうございます。教会生活の中で嬉しいことは、信仰にある兄弟姉妹の信仰告白や実生活を通して語られる生きた証しを聞くことです。クリスマスが、その人の内でイエス様がお生まれになった喜びとなっていること、イースターのイエス様の死よりの復活がその人の内で真実となっていることをお聞きする時、「アーメン(その通りです)」と主を賛美できることが感謝です。ましてや、洗礼を受ける方が与えられ、キリスト・イエスにある信仰の家族になれることは喜びの極みです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)とのイエス様の言葉は、私たちの救いが自分ではなく、イエス様のわざであること、恵みによって生きる人生の始まりに感謝です。

「栄光」という言葉は、普段あまり使うことはありません。今年はロンドンでオリンピックが開催されますが、栄えある舞台で優勝した人が栄誉を受けることを私たちは知っています。しかし、ヨハネによれば、栄光とは「神が肉(人)となり、わたしたちの間に宿られた」こと(ヨハネ114)であり、イエス様にとってはユダの裏切りを受け世の謗りを受けること、受難にありました。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(ヨハネ13:31)何と言う逆説でしょうか?褒め称えられ賛美を受けられるべき方の栄光が、軽蔑と無視と懲らしめ、そして無残な罪の身代わりの十字架の死に変えられてしまったのです。しかし、・・

初めてのイースターの朝、イエス様は復活(アナスタシス)されたと福音書は書き記します。ギリシャ世界では「奇跡の極地」を比喩した言葉です。私たちが自分の罪を悔い改め、自分の人生を捧げて生きる理由は、救われることにではなく、イエス様が救い主として栄光を帰すに価する方だからです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるためです。」(17:1)イエス様の栄光は十字架で終わりませんでした。墓穴にイエス様の遺体を捜しに来たマグダラのマリアに主は、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問われました。救いは私たちのためではなく、神の栄光のためであり、その栄光に私たちが与るため、復活に与るから救われるのです。私たちが捜すべきは、私たちがたとえ死んでも、永遠の命を与える力のある救い主、イエス・キリストです。

2012年4月8日  (過去メッセージのリンク)





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