「イエスを見つめて」 ヨハネによる福音書192830

 今週から受難週に入ります。ヨハネ福音書18章によれば、主イエスはユダヤ教指導者たちの妬みにより、罪を擦り付けられ、大祭司カイアファの尋問、総督ピラトの判決を受け、十字架に向われました。裁判の席に立つイエス様はむしろ総督より毅然とし、「わたしの国は、この世には属していない。」と、神の救いのご計画が人間の企みに翻弄されることはないことを明らかにされました。

19章で、イエス様は自ら十字架を背負い、ゴルゴタに向われ、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」との罪状書きとともに十字架につけられます。ヨハネは他の福音書と違い、イエス様は、今やすべてのことを成し遂げられたのを知り、ただ、「渇く」と言われました。その言葉に聖書の言葉が実現するに至るまでのイエス様の痛み、苦しみが込められているように思われます。30節にて、イエス様ははっきりと「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。新改訳で「完了した」と訳された言葉は、「相殺した、帳消しにした」という意味です。過去の罪や失敗、傷をなかったことにするのではなく、債務を清算し、請求を無効としたということです。主イエスの贖いを信じることは、再出発ではなく、復活の力によって「霊によって新たに生まれ」(ヨハネ3:5)、勝利者「コントロール権を持つ者」(ローマ8:37)となることです。十字架の贖いは、この世に翻弄される私たちが復活の新たな力によって旧い自分に死に、新たな戦いに備えさせていただくことです。

十字架は完全なる神様の愛を表します。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)とパウロは語ります。人のライフプランは「死」で終わるのでしょうか?マルタとマリアの兄弟ラザロが病気で死に、葬られ四日も経った後、イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25)人生には、永遠の神との交わり、愛する者との再会の希望があることをイエス様はその生き様を通して示して下さいました。神の立てて下さったライフプランには今を復活のイエス様と共に生きる計画が記されています。

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2012年4月1日  (過去メッセージのリンク)





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