「御心を地にも」  ルカによる福音書223946

東日本大震災では、祈る間も無く大災害に巻き込まれた方々があまりにも多く、その時に発せられた言葉や祈りにどれ程の驚き、恐怖、叫びが込められていたか想像できません。神は何をしておられたのか?オリーブ山での最後の祈りは逆に、想定される十字架の苦痛、恐れ、痛みに向かわれたイエス様の霊的な戦い、自由への道しるべを示します。それは、運命に翻弄させる者の姿と言うより、神の救いのご計画を主導するイエス様の姿を現すと思われます。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」目に見える試練、苦痛、災難、それが分かっていたなら、私たちも同じように神様に願うでしょう、「他に方法や道ははないのでしょうか」と。しかし、父なる神の答えは「No」。イエス様には分かっていました。その杯は、私たちが受けるべき罪の代償、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(フローマ3:25) 私たちが最後に避けて通れない死の問題を主は私たちの身代わりとして受け、取り除けてくださいました。

「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」その祈りに、イエス様の苦しみ、「神様に自分自身を明け渡す」イエス様の霊の戦いがあります。ゲツセマネの祈りには、日々自分自身を明け渡せず自分の力で生きようとして苦しむ私たちの姿も重なります。しかし、イエス様の祈りの結論は、私たちに開放と自由を与える祈りの要があります。神様に降伏し、自分自身を明け渡す時、たとえ現状は変わっても変わらなくても私たちの心には平安が与えられます。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。」とあります。「苦しみもだえる」という言葉は、何かギョッとするものを見てしまい恐怖を覚えることを意味します。パウロは、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23) 主イエスは父との親しい関係の断絶を見、味わわれた。そのことを通して私たちは、神との和解を得たということです。私たちはイエスにあって、死の苦しみを味わうことはない、だからこそ御心に生きる勝利の戦いをこの世にあって成していくのだと思います。主の御心を選ぶ自由に立ち、出て行きましょう。


2012年3月25日  (過去メッセージのリンク)





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