「たらいと手ぬぐい」  ヨハネによる福音書13111

昨年、受難節「レント」に入った週末、11日(金)に東日本大震災(当初は東北地方太平洋沖地震、東北北関東大震災と呼ばれた)が発生し、甚大な被害がもたらされました。「被災地とか被災者と呼ばないで、そこは私たちの故郷であり私たちはあなたたちと同じ人間です。」と、ある方が言っていました。被害を受けた当事者とそうでない人との認識にずれがあります。復旧・復興支援はそのずれを埋めていく分かち合いの作業でもあります。

ヨハネ福音書は「霊的福音書」と呼ばれ、より内面的にイエス様の言動を捉え、特に受難節の出来事と十字架に向われるイエス様の言葉を多く残しています。「最後の晩餐」も他の三つの福音書より一日早く、「弟子たちの洗足」を追加して記します。ルカは、「あなたがたの中で一番偉い人は、いちばん若いもののようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ2226)と、ヨハネと並行する記事を載せています。しかし、誤解してならないのは、イエス様は仕える者の心を教えようとされたのではなく、ご自身を通して神が人に仕えられた事実を示されたのです。どの宗教も「人が神に仕える」ことを教えます。しかし、福音書は、神の子であるイエス様が上着を脱いで手ぬぐいを取り、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、拭いてくださったという驚くべき真実を伝えます。

「わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後でわかるようになる」イエス様の十字架は私たちの罪の贖い、正真正銘の神の子を代価として償われた罪の赦しの証しです。「私の足を洗わないで・・洗ってくださるなら手も足も」と答えたペトロと神の業にはずれがありました。「わたしたちは皆、汚れた者となり正しい業もすべて汚れた着物のようになった」(イザヤ64:5) イエス様は、神と人との間にある埋められない断層、罪の汚れをただ一度、完全に洗い拭き去り清めてくださいました。レントの季節、私たちは、神の衣を脱ぎ、人として、私たちの罪の贖いのために身を捧げられたイエス様を覚え、その先にある復活の希望を仰ぎます。十字架のイエス様の背後に立って、たらいと手ぬぐいをもって世に仕えていくことの意味、世界の復興の意味を考えてまいります。

2012年3月18日  (過去メッセージのリンク)





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