「子ロバに乗って」 ルカの福音書
192840

 メディカル枕で安眠できる幸せとは、メディカル枕でも安眠できない沖縄県民の犠牲の上につくられていたのだった」という通販生活という雑誌の記事検証のためにノンフィクションライター森まゆみさんが取材していました。二夜にわたる普天間基地周辺での爆音と危険の中でそれは本当だったことが確認されました。

 私たちが当たり前と思っている「平和」が、実は誰かの「犠牲」の上に成り立っている、何かと引き換えに成り立っている、残念ながらそれは事実です。パスカルは、科学や技術の進歩に人間の「偉大さ」を認めますが、同時に戦争や犯罪を止めることのできない人間の「みじめさ」、人間が矛盾する存在であることも認めます。

 しかし、使徒パウロは大胆にも、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」(ローマ5:1)と語りました。主イエスが、私たちの罪のために死に渡され、復活された以上、神と私たちの間に存在する戦いは終わっている。矛盾する人間側からでなく、神によるイエスの犠牲に裏打ちされた平和が既に到来しているというのです。

 受難節に入り、私たちがたどるのは、主イエスの受難の道。それは強いて世の罪と対峙するイエス様の十字架への道で、和解への道のりです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました」(エフェソ2:14)

「武力によってしか平和は守れない」「攻められたらどうする」 今、世界はその考えに誘導されているのではと懸念します。弟子の群れはイエスを力による解放者と期待し歓喜してお迎えしました。また、主イエスはエルサレムのために泣かれた(41)とあります。本当の平和へのわきまえが彼らに無かったからです。イエス様の慈しみのまなざしは、葛藤の中、今を生きる私たちにこそ向けられています。

 「主がお入り用なのです。」(34) 人間の用事のためにつながれていたロバはほどかれ、平和実現のために十字架に向かうイエス様の御用に用いられました。主は、弱さや欠け、傷がある人ほど主の平和のために用いられ、その働きを通してその意味を深めてくださいます。「主よ、わたしを平和の道具としてください。」

<

2012年2月26日  (過去メッセージのリンク)





毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)