立ち上がってルカ福音書171119

イエス様はエルサレムに上る最後の旅で、ガリラヤとサマリアの境を通られました。そこに村があり、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎えます。

「遠くの方に立ったまま」彼らは声を張り上げてイエス様に憐れみを乞いました。彼らには伝染性の病気があり、汚れた者として一般の人々から隔離され近づいてはならなかったのです。彼らは差別と偏見を甘んじて受けなければなりませんでした。サマリアとガリラヤの境は問題をはらんだ場所、イエスはその問題の真ん中を通られようとされました。「神の国はあなたがたの間にある」(1721)とは、現実の世界への神の介入が既にあることを示しているのではないでしょうか。

「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」彼らは十人とも癒される前に信じ行動しました。当時の人々にとって、病気の回復は個人的なことに留まらず汚れからの清めの印、社会復帰、人間関係の回復でもありました。

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」私たちは神の恵みを感謝することなく受けることができます。神様は私たちに恩着せがましく感謝されることを望んではおられません。しかし、私たちの心からの感謝を神は喜んでくださいます。詩編107編では、“主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。”と七度、苦難から助けて下さる神に感謝し主の慈しみに目を注ぐことの大切さを語っています。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」この外国人はサマリア人、元々はベテルの金の子牛の像を礼拝する人でしたが、イエスのもとに来てひれ伏し感謝し真の神に立ち返りました。感謝が賛美を産み信仰の成長が始まります。試練に対して信仰を働かせ、神の恵みの意味を深め、神をより知るようになります。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、イエスとイエスの言葉を信じる決断をした者への神の祝福なのでしょう。

 重い皮膚病を患った人々への偏見や差別はつい最近までハンセン病者の間に見られたものです。しかし、原発事故による放射能汚染は被害を受けている人々へ差別と偏見とを町や県境を超えて今も与え続けています。ヘンリー・ナーウェンはキリスト者の社会的責任について「キリストの心で考えること」と語り、霊性の成熟は傷ついた者たちとの人格的実践的なかかわりにあると言っています。まず、イエス様のように現在の状況に近づき、対立から始めるのではなく、きちんと現状を知ることから始めることは決して遅くないことと考えます。

2012年2月12日  (過去メッセージのリンク)





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