「誰のもの」 ルカによる福音書202026

 「皇帝への税金は是か非か」という質問状を持って回し者がイエスのもとに来ました。エルサレムに入られた直後、イエス様は神殿の境内で犠牲の動物の売り買いや、神殿税を納めるための両替商たちを追い出されました。恩恵を被っていた祭司長たち、ユダヤ教の慣習を厳守した律法学者や民の指導者たちはイエスを訴え殺そうと狙っていました。人は、自分の利害にかかわることには敏感です。それを脅かすイエスは彼らにとって脅威でした。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」その質問はイエスを陥れるには完璧な質問であり、ローマへの納税は被支配の印、銀貨の肖像や銘は屈辱の印でもありましたから切実な質問でした。

「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

イエス様の答えは本質的なものです。私たちの生活や人生を支えているものは誰のもので、誰からのものなのかが問われています。皇帝のものと神のものとが別々ではありません。政治も経済も含め、そのすべてを支えているのは何か、というイエス様から私たちへの問いでもあります。イエス様は豊作を得た金持ちのたとえで言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(1215)それは私たちの死後のことや死生観を言っているのではなく、今を最高に生きる道、私たちの価値観にある肖像、銘を誰としているかの問題です。

 社会の中で、私たちが果たす責任がああります。社会制度に従うこと、納税もその一つです。しかし、本質的な責任がクリスチャンにはあります。神の恵みに対する応答責任です。国が国を支配して良いのか、正当化できる戦争というのはあるのか、多数派によって信教の自由を束縛して良いのか・・。私たちはさまざまな問題を議論していく必要があります。しかし、同時に神の恵みへの応答と託された恵みの管理者としての責任を考えていく必要があります。東日本大震災によって表面化した(本来問われなければならなかった)原発問題は人間同士の水平的な責任問題だけではなく、神の恵み(委託された被造物すべて)への垂直な応答責任としてクリスチャンは捉えていく必要があります。

「神のものは神に返しなさい。」世界の全てのものは神のものです。私たちが主にお返していくものは神ご自身に由来するもの、すなわち「栄光」「誉れ」「榮え」です。その時、私たち自身が主のものであることを知ると思うのです。

2012年2月5日  (過去メッセージのリンク)





毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)