皆そろうまで」 ルカによる福音書15110

 ルカ15章に登場する三つのたとえ話の共通テーマは、「失っていたものが見つかり、それを取り戻した喜び」と、「喜びの分かち合いへの招き」です。  

イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)と、徴税人マタイ、ザアカイを招かれました(ルカ1910)。イエス様に不平を述べたファリサイ派の人々は、中産下層階級から出た敬虔な人々で、信仰深い人々であったと言われています。しかし、その厳格さは律法主義と優越感に変わり、同胞を「聖い者」とそうでない者、「神の民」と「地の民」とに分けて差別するようになっていました。ファリサイ派、律法学者たちはイエス様から離れて立ち、イエス様の話を聞こうと近寄ったのは「地の民」と呼ばれた徴税人や罪人(犯罪人ではなく、律法を守らず、不真面目、不道徳、と思われていた人々、そして律法を持たない異邦人)でした。

 イエス様は、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と、遊牧の民イスラエル人にとって迷い出た羊を助け喜ぶのは当たり前、ならば父なる神は「地の民」さえ憐れに思い捜し回らないだろうかと語られます。また、「10枚の銀貨のうち1枚を無くした女性は、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と、失われた同胞の魂が救われることを願わずにおれないだろうか、と自分の救いだけに固執し喜べない彼らこそ、「医者が必要な病んでいる人」(ルカ5:31)とイエス様は教えられたのです。

「悔い改めさせるため」とは、イエス様が来られた目的を言っているのではなく、「悔い改め」が起こる原因や根拠を表します。自身の命をもって癒す医者、イエス様の犠牲と愛を根拠として魂の救いが起こると言うのです。預言者エゼキエルは、「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。」(エゼキエル36:22) と、救いが人間を根拠としてではなく、神の名、すなわち赦されないものを赦す決意決断をする方を根拠として起こると言いました。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」(エゼキエル18:32)との言葉は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316)との、迷い出た羊、無くした銀貨が皆そろうまで捜し回る神の深い愛を表し、「喜ぶのは当たり前」と神のみ旨を示すと私は思います。

2012年1月29日  (過去メッセージのリンク)





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