「ただ一つのこと」 ルカによる福音書103842

  ベタニアという寒村をイエスが通られた時、一行はマルタとマリア姉妹の家に招かれました。姉のマルタはもてなしに忙しく、妹のマリアはイエスの足元で話しに聞き入っていました。そこで、手伝ってくれない妹へのマルタの不満は爆発し、イエスに不平を述べたのです。イエス様はどちらが正しいと言われるのではなく、多くのことに思い悩み、心を乱してしまったマルタを憐れみ慈しんで「必要なことはただ一つだけである。」と奉仕の新しい局面を示されました。

 「奉仕は人にではなく、神に対するもの」

雑事に追われることほど忙しさを感じることはありませんが、日々の生活の中の働きの多くは一見価値の低い繰り返しに満ちています。働きが目に見えて報われ、評価され、自分でも意義ある働きだと思える時、充実感を私たちは持つことができます。その延長線上でマリアとマルタの物語を読む時、ある人は接待に心を砕くマルタに同情を覚え、ある人はマリアのように主に静まることが大切だと感じるでしょう。しかし、マルタの問題は、彼女の心がどこにあり、奉仕が誰に、何に向っているのか混乱していることにありました。

当時のユダヤ社会はもとより初期の教会でも女性が教師の前の席に着くことはなく、女性たちは後方で奉仕にあたるしかありませんでした(81-3)。しかし、マリアはおそらく女性で初めて弟子の場所に座りました。弟子が第一にすることはイエス様の足もとに座り、その言葉を聞くことです。マルタの不満の原因は、イエス様の足もとに座れないということよりも、一人で行う奉仕そのものに心を向けたことにあり、その重荷にあったのではないでしょうか?奉仕は、人に対してではなく、神に対し、神に心を向けるもの、人や自分にではなく神に栄光を帰すことですが、互いの不完全さを「補い合う」働きであることを忘れてはならないと思います。

「ただ一つのこと(無くてはならぬもの)」

マリアは、主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。それは、「奉仕」よりも「礼拝」が大切、マリアのとった行動がマルタより優れているということを表すのではないと思われます。日々の生活の中でも、生死に関わる非常時にも次の行動をとるための具体的な「神の国とその義とを第一とする」という優先順位を示しているものと思えます。主の前に静まる、他者はそれを手伝うことはできません。しかし、自分で主の足もとに座り御言葉に聞くことを選ぶ時、私たちには、イエス様の弟子たる道、多様な奉仕、それに耐える力が与えられると信じます。

2012年1月22日  (過去メッセージのリンク)





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