善きサマリヤ人」 ルカの福音書1025−37

 善きサマリヤ人の箇所から、神様に仕えるとは人にも仕えることであり、人を無視して正しく神様に仕える事は出来ないということを学ぶことができます。また隣人を愛するとは、その相手を祝福することであり、干渉しないことではないことも学べます。

 29節で、律法の専門家が自分の正しいことを示そうと、隣人とは誰なのかという質問をします。そこからイエス様の譬え話が始まります。一人のユダヤ人がエルサレムからエリコへ下る途中の道で、強盗に襲われ、ぼろぼろにされ道端に倒れていました(30)。そこに、祭司、次にレビ人が通りかかりましたが、2人とも倒れている人をそのままにして行ってしまいました(31−32節)。祭司は神様に仕える身であり、レビ人もまた神殿で祭司の働きを補助する、神様に仕える人でした。なぜ彼らは傷ついた人を無視してしまったのでしょうか。それは、彼らが神様に仕えていたから・・・正確に言うと、彼らが神様だけに仕えていたからだといえるでしょう。

 当時のエルサレムでは神殿で犠牲を献げる時間が決まっていました。彼らは神殿に行く途中で、傷ついた人を助ける時間がなかったのです。もし血に触れてしまったら汚れて(けがれて)しまい、神殿で奉仕する事が出来なくなりました。彼らは倒れている人を助けるよりも、神殿で神様に仕える事の方が重要だと考えていたのです。

 神様に仕える事は確かに重要な事ですが、隣人を愛する事を無くして神様に仕える事は出来ないというイエス様のメッセージがここにあります。律法の中心は神を愛することと、隣人を愛することです。私達も神様だけに仕えていこうとする時、人に対する愛に欠け、信仰は力を失います。神の愛に留まり、愛に生かされなければならないのです。神様に仕える道は、人にも仕える道だという事を心にとめましょう。

33−35節では、通りかかったサマリヤ人が倒れているユダヤ人を助けました。当時のサマリヤ人はユダヤ人から見下されていた存在でしたから、いわば目の前には敵対するユダヤ人が倒れていたのです。彼が回復した時に感謝をするとは限りませんでしたが、それでも助けました。

私達はいつ燐人を助けるべき状況に置かれるか分かりませんが、善きサマリヤ人のように人に仕える愛を実行するものでありたいと思います。

川口 竜太郎

2012年1月15日  (過去メッセージのリンク)





毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)