「主を讃えて」 ルカによる福音書1:4656

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。(4748b)

「どうしてそのようなことが・・」と言わずにはいられない出来事が今年私たちの身の回りで起こりました。クリスマスを前に、マリアに起こった出来事をめぐって信仰に生きることの意味を考えさせられます。マリアは天使ガブリエルによって思いもよらぬ受胎を告知されます。見方によればつつましく信仰深く生きていたであろうマリアに神様は何という仕打ちをされるのだろうと思ってしまいます。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」その言葉を受け入れることができなかった時、マリアには不安と恐れとがありました。しかし、「神にできないことは何一つない。」との天使の言葉をマリアが信じ、高齢で不妊であったエリサベトに示された憐れみを分かち合った時、エリサベトの胎の子はおどり、マリアは主を讃美する者に変えられました。

聖書の言葉を理解することができたから信じるのではなく、自分の願いや祈りが聞かれたから信じるのでもなく、「主がおっしゃったことは必ず実現する。」と信じ、その信仰に生きることが大切です。エリサベトは主の言葉を信じる者を幸いな人と呼びました。信仰は霊と魂の決断であり、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ1:23)との約束が私たちの決断に先立ちます。苦しみや痛み、辛い経験のただ中で神が共におられること、それが神様が実在されるしるしですし、迷いながらつぶやきながら生きる私たちを支える信仰の基です。

マリアの魂は主をあがめ、霊は救い主である神を喜びたたえました。マリア自身ではなく、マリアの霊と魂が主をあがめ、たたえたと言うのです。今年は自然の力を思い知り、自然をコントロールできると過信していた私たち人間の小ささ弱さと罪に気付かされた年でもあります。そんな小さな者にも、生かされていることを知らないで生きる者にさえ目を留めてくださる神様を知り、信じる時、私たちの霊は本来の人間の姿に気付き、主を喜び讃美するというのです。主の偉大な憐れみは、マリアだけでなく「限りなく、主を畏れる者に及びます。」(50節)

2011年12月18日  (過去メッセージのリンク)





毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)