待っておられる主」 詩編130編1節~8節

今年のクリスマスを祝うとき、東日本大震災と原発事故のことを抜きにして考えることは出来ません。イエスさまの誕生が予告される箇所(ルカ126~)で、天使はマリアに対して「おめでとう、恵まれた方」(28節)と言います。ヨセフが知らない間に子どもを宿したわけですから、どうして恵まれているのか。マリアの苦悩は想像を絶するものです。しかしマリアは神さまのご計画を受け止め、戸惑い、うろたえながらも、「私は主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように。」と応え、神さまへの信頼と希望に生き始めます。今回の大震災で、途方もない悲しみ、苦しみを受けておられる方々は、そのどん底から復興に向けて動き出しておられます。まさに神さまが、その方々と共におられて、希望を与えてくださっているとしか考えられません。そのような方々のところにクリスマスが訪れ、イエスさまがお生まれになった。深いどん底にあって、人の力ではどうにもならない状況にあっても、希望を与えてくださる主が私たちにも、被災された方々の上にも、共におられること確信し、感謝するクリスマスをお祝いしたいと思います。

本日の聖書箇所詩編130編は、そのようなどん底にありながら、なおも希望を持って主を待ち望むことのすばらしさを語っています。最初の部分は「深い」「淵」「叫び」「嘆き」「罪」というような、暗い言葉ばかりが並んでいます。しかし後半は「望み」「待ち望む」「慈しみ」「豊か」「購い」など、トーンが全く違っています。苦しみが喜びに変わる、普通考えられるような経験をこの詩編の作者はしていません。今もなお深い淵の底にいる人であっても、最高の祝福を得ることができる、と詩編は歌っているのです。

ところで待降節アドベントは、私たちが主を待っているというだけでなく、それ以前に、主は私たちを待っておられるのです。私たちを待っておられる方がおられる。私たちこそ待たれているのではないかということです。ヨハネの黙示録320節にそのことが書かれています。キリストは、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と言われる救い主です。キリストは、私たちの心の戸口にたって、「わたしを迎え入れて下さい」と呼びかけておられます。キリストは、いつもすぐそばにおられます。しかし、泊まるところを求めてベツレヘムの宿をさがし、マリアとヨセフが戸を叩いても、宿屋の人たちは、「いっぱいだから」と、拒みました。イエスさまは、すぐそこにおられるのに、私たちは拒んでいます。そのような私たちに「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と言われる救い主イエス・キリストを迎え入れるクリスマスとしたいと思います。

2011年12月11日  (過去メッセージのリンク)





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