川口 竜太郎

シモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ルカ2234,35

主の晩餐の後、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」とイエス様はおっしゃいました。ペトロだけでなく弟子たちの裏切りをイエス様は知っておられました。しかし、イエス様はそんなペトロのために祈られました。

この出来事は、人間の力による信仰には限界があることを私たちに示します。目の前に起こる問題が自分の手に負えない問題であればあるほど、そこには神の御手があることを私たちは知る必要があります。神の助けはいらない、自分の力で何とかできると粋がっていた自分を見る思いです。ペトロは、イエス様やその周りで起きる出来事をこの世の目でとらえ、自分の力や意思で解決できると考えていたのかも知れません。彼は威勢良く立ち向かいました。しかし、ペトロの強がりも迫り来る迫害の前には吹き飛んでしまい、イエスを「知らない」「関係ない」などと3度も否定してしまいます。泣き崩れるペトロ、何と哀れなペトロ、しかし、そこに主イエスが祈ってくださり、恵みによって始まる信仰があります。

挫折することが目に見えており、逆境の中にあっても私たちは信仰の目をもって前向き肯定的に生きることができます。「ムナ(タラントン)のたとえ」(ルカ19:11)にあるように、神様は私たちに人生における「成功」や「達成」を求めておられるのではなく「忠実」であることを求めておられ、「良い僕、よくやった。」と褒めてくださいます。また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われる主イエスを信じ、イエス様に委ねて生きる時、私たちは重荷を負って生きる人夫ではなく、救いの十字架と復活の希望を世に知らせる世の光、地の塩となります。ペトロだけでなく、このわたしさえ愛してくださるイエス様のお誕生、クリスマスを覚えます。

2011年12月4日  「わたしさえ」 ルカによる福音書22:54~62
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