2011年11月20日 「気前のいい主人」マタイによる福音書20116 
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「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。・・」

本日、バプテスマを受け信仰生活を始める方が与えられました。神様を中心として生きる決心をされたということです。それは、神様がどんな時にも何があっても自分の願い以上のご褒美を用意してくださっていると信じ、期待しながらイエス様に従っていくことを意味します。

イエス様は、そのような人を天国に籍を置く愛する同労者とみなしておられます。ぶどう園の主人とその労働者のたとえ話は、天国における雇用規定が神様の「恵み」に基いていること、その支払いの確実さを語ります。そして、その報酬とは賃金のことではなく「魂の救い」であり、生きていく喜びのことです。人は自分の働きに相応した報酬を受けたいものです。一日苦労した労働が評価されないことは悔しいことですし、楽して報酬を得た人を妬む気持ちも分かります。しかし、このたとえは日常生活に必要なもの以上に、神と共に生きること、神の役に立って生きることへの保障として語られていると私は思うのです。「自分は孤独で何のために生きているのか分からない。」「自分は社会で必要とされていない」「自分は誰にも愛されていない」・・様々な悩みを持った人々は以外と多いのです。

イエス様は言われました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも私と共に十二の座に座り、治める。」(1928) 「救い主が来られると全てが変わる」イスラエルの人々にとって救い主は民族解放の希望でしたが、彼らは自分たちの意にかなわぬイエスを捨てました。しかし、イエス様こそ隅の親石となった石でした(使徒412)。 「気前のいい主人」は善い方で、私たちの働きの多い少ないで救いに差をつける方ではなく、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(545)方です。その、子として神様は私たちをぶどう園、すなわち神の救いの業のために招いてくださっています。この世における神の自由と平等と平和は、天国の雇用規定である「恵み」に立つ人々によって実現して行きます。





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