ルカ福音書はイエス様のまなざしが異邦人、罪人、徴税人、病者、障碍者、見捨てられた人、そして特に女性や子どもに向けられ、その救いの福音の秘密がこの世では弱いと思われている人々を通して明らかにされていく様を描いています。マタイは一般的にユダヤ人への伝道を目的に、その祖先アブラハムからイエス様までの系図を用い、ルカは異邦人への伝道を目的にイエス様からアダムに至る系図(ルカ323)を用いたのではないかと言われています。しかも、ルカが採用した系図は女性側に立ち、全ての人に福音を伝えようとしています。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ252)

イエス様の成長の姿は、本当は私たち人間の偽らざる理想ではないでしょうか?自分自身を愛するためには人に愛されたという実感が必要と言われますし、神に愛されるということは理屈を超えた愛の実感に満たされることでもあります。人に愛され、自分も人を愛する者になる、それが私たちの願い、一生涯をかけて実現したいことではないでしょうか?今生きる私たちが、知っておくことは、神がイエスにあって私たちを深く愛しておられることとそれを信じて生きることです。ユダヤ人にとって12歳は信仰の上では一人前と認められる年齢です。ユダヤでは巡礼、特に過越祭には集団でエルサレムに上る規定がありました。父母は帰り道、イエスが居ないことに気が付きます。ようやく神殿の境内で学者たちと一緒にいるイエスを見つけ、母マリアはイエスを心配ゆえに叱ります。しかし、イエスは「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えられました。「父の家」と訳された言葉は「父の仕事」という意味でもあります。イエスは神の愛の中に自律しておられました。

 「神に愛されている」それがイエス様の知らせです。律法を守らなければ神の愛が無いとか不幸な出来事は不信仰のしるしと裁かれるのではなく、神の憐れみ(共に苦しむこと)と慈しみと愛をイエス様は言葉と行動で示されました。父母さえその大胆な信仰と行動とを理解できず、尚のこと宗教指導者や祭司たちはイエスをねたみ憎悪し十字架へ追いやりました。苦難の時、神はどこにおられるのか?神はその時、イエスという未知なる人(イザヤ53:2)として私たちと出会われます。そして、イエス様に従う時、私たちは愛の問題を避けて通れないのです。

2011年11月13日 「生涯をかけて」ルカによる福音書2:41-52 
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