「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。・・ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった・・のです」(11140)と続けます。

 聖書の中で実質、神の人と呼ばれた人はモーセ以外にありません。その人が神の召しに応え、何十万の人々を奴隷の地エジプトから救い出し、荒野を40年間旅し、苦労に苦労を重ねて今、約束の地カナンを見るだけでそこに入ることができないと神に宣言されたのです。最初読んだ時、何と無情で残酷なことかと私は思いました。しかし、1960年代、自由公民権運動を導いたキング牧師を知った時、神のご計画は人間的な時間や倫理観では捉えることができないと感じました。「私には夢がある」と人種差別にとどまらない非暴力による民主主義社会の実現にまい進した彼は、暗殺される前夜、神の約束により「私は山に登ることが許され、山頂に達し、約束の地を見た」と、自分は行けないかもしれないが、ひとつの民として共に約束の地に行くことができると公言しました。

 旧約聖書の人々は約束のものを受けられませんでした。それは「更にまさったもの」天の故郷(カナン)の建築がイエス・キリストにあって完成していなかったからです。しかし、今は違います。ペトロは、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペトロ1:5)と霊的視力の必要を語ります。

 モーセのように夢の実現の途上で役目が終わったり、約束の実現を見届けることなく生涯を終えることは残念なことかも知れません。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた神は、モーセの神でもあります。彼らは過去の人々ではなく、今生きる私たちと共にある神による証人の群れ、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめて生きる私たちと共にまだ見ぬ事実を確認する人々です。

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2011年11月6日「さらにまさった計画」申命記34:1~8 
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