パウロは自身を「ヘブライ人の中のヘブライ人・・熱心さでは非のうちどころのない者であった(フィリピ3:4)」と表現するほど信仰の世界でトップランナーでした。しかし、彼はその誇りをイエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに損と思い、塵あくた(口語訳:ふん土)と見なしました。それは、彼が十字架にかかられたイエス様に遭遇したからだと推測されます(使徒2615)。力ある神がその力を振るわず、その神に何をしているのかもわきまえない人間を赦されたこと、自分がその赦されている本人であることをパウロは直接イエス様の姿に見たのです。「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される(2コリント12:9)」 強がり、弱みを見せずに生き、律法を守ることによって神に人に身を立てていたパウロは、イエス様ご自身が「弱さ」に生き、その「弱さ」にあって死に、神はその「弱さ」の中に働き、イエスを復活させられたことを知ったのだと思います。  

ルターは人間を「不幸でありながら高慢な神々」と呼びました。そして、神はその神々を、本当の人間、すなわち悲惨と罪における人間にするという仕方で、十字架に付け、キリストと同じ復活に与るものとされたと捉えます。それは不条理の中に生き、意味の分からない出来事の中で生きる私たちの「弱さ」そのものにこそ神がおられ神の力を現されるということで、間違って解釈していた人間性や弱さを本来のものに回復してくださったということです。「人間だから」という慰めやあきらめで弱さを片付けなくてよくなった時代が到来しているということです。

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」(2コリンント13:4) パウロの言う信仰者は、立派で非の打ち所のない人ではなく、愚かさ弱さの中に働く神の力を信じて生きる人のことです。パウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と続けます。パウロは私たちが、「神を信じて何の得があるのか」と思える経験をしたとしても感覚や経験中心に神を捉えるのではなく、聖書全体から与えられている神の約束に立つ人となることを願っています。強がらず弱みを見せつつもそこに働く神の力を信じて、福音を伝え証しする教会となって参りたいと願います。

2011年10月2日 「弱さの中に」 コリント第二の手紙13:4
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