先日、ある60代の身障者の方にお会いしました。言葉も不自由な中、その方は自分の障碍について「神のみ」と表現されました。イエス様を信じたからといって障碍が治った訳ではない。しかし、イエス様に出会い、イエス様が自分の罪の身代わりとして死んでくださり甦ってくださったことを信じた時、心が開放され自由になり、何事も感謝するようになったとその方は言われました。

「み言葉を聞いて受け入れる」

アブラハム、イサク、ヤコブの神は主イエスを通してご自身の存在としての「神の国の福音」を告げ、それにともなうしるし(真実である証拠を与えるために行われる不思議な)を示されました。福音の種はこの世界のどんな種より小さくとも、良い地に蒔かれると、大きく成長して鳥が巣を作るほど大きくなります。(430) 不平・不満の種は尽きませんが、天より蒔かれたみ言葉の種を素直な心でまず受け入れると種の成長が始まります。どうしてそうなるのかは分かりませんが、信仰は私たちを神の良き企てに巻き込み、信じた人を変えていきます。

「向こう岸へ渡ろう」 

 イエス様は弟子たちをゲラサの地、ガリラヤ湖東岸、未知、未体験の地に派遣されます。ほかの舟(私たちを暗示するかも知れません)も一緒でした。神様を信じることは困難や試練から開放されることではなく、イエス様を自分の人生に乗せたたまま漕ぎ出すことではないでしょうか?マルコは、イエス様をヒーローや超越者としてではなく、神と神の企てに信頼し、十字架の死に至るまで従順であった方、そしてそれ故に死から復活された方ととらえています。風を海(湖)を叱り、弟子たちを救ったのはイエスにある神の権威です。詩編107編はイスラエルの民が捕囚の苦しみから解放されたことを祝う歌です。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。」と四度も繰り返し、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」と続けます。それぞれにとっての未知なる向こう岸、思いもよらぬ病気や仕事のこと、進路、人間関係、老いや老後のこと、死の問題へと、不安や試練が尽きぬ中、艫の方におられるイエス様を起こすほどの祈りと願いをもって漕ぎ続ける信仰が必要です。

2011年9月25日向こう岸へ渡ろう」マルコによる福音書4:35~41
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