パウロは自身を神の憐みにより選ばれた「使徒」と呼び、キリストの奴隷、囚人と自覚し「主の僕」と呼びました。その言葉には、「生き証人」という意味が込められています。神に深く愛され赦されていると知ったパウロは、キリストによって示された神の愛の証人となりました。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」 

イザヤは、イスラエルが存亡の危機に直面した時代に生きた預言者です。そのメッセージの中心は救い主の到来です。神の僕として選ばれた民イスラエルを滅亡から救ったのは、彼らの力の限界を超えて働く神の愛(約束を果す神の誠実)でした。神に従い得ないイスラエルの弱さゆえに神はどんな時にも「インマヌエル」(神我らと共にあり)の神であることを告げ(8:8)、みどり子救い主の到来の約束(9:5)をイザヤを通して与えられました。自分の限界を知り、弱さを認め、救い主イエスを受け入れる時、魂に赦しと平安が与えられます。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯芯を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする。」 頑迷なイスラエルの人々を赦し救いに導く救い主の姿に、天地創造の圧倒的な神の姿はありません。むしろ、イザヤは「見るべき面影はなく・・多くの痛みを負い、病を知っている」人(53)と、やがて訪れる救い主を表現します。この世において小さな者のみならず、頑固で迷った人をさえ「あなたは高価で尊い(434)」とその救いの恵みに招いて下さいます。

今、世界一の高齢化社会と言われる日本で、70歳以上の方は戦中の記憶を持っておられると思います。それは同時に教会が、困難な時代を信仰によって乗り越えてこられた多くの僕たちによって支えられてきたという証しでもあります。救い主の到来を告げるイザヤ書40章の最後は、造り主なる神は「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得、わしのように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」と、信仰が私たちの頑張りではなく、主に信頼し主の証人となっていくところに強められることを物語っています。

2011年9月18日 「主の僕」 イザヤ書42:1~4
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