このところの暑さと、突然の気温変化に体がついて行けないところがあります。また、歳をとると気持ちはあっても体がついて来ないという現実もあります。内面的なことに目を向ければ、私は神様を信じ、神のご計画があると知りながら、時々神様の御心が分らず間違った選択をしているのではないかと悩むことがあります。気持ちがあっても従い得ない私たちの肉体的な弱さ、み言葉に聞き従って行けない信仰の足りなさを感じるものです。ゲツセマネでの弟子のような気分です。

しかし、感謝なことに救いは神にあります。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(詩編612-3)。そこが信仰の出発点です。讃美歌に「わが身の望みは」という歌があり、「ただ主にかかれり」と続きます。福音を信じる者にとって頼る方はイエスの他ありません。イエス様は身を投じて私たちを罪から救って下さったからです。復活のイエスに出会った弟子達と同じ心境です。

神との出会いの一つの有力な機会は困難に直面した時と言えます。モーセは当時のエジプトの最高の教育を受け、行動力に長け、自身がイスラエル人でした。そして彼は、自分の手を通して神が苦しむイスラエルの民を救おうとしておられることを同胞が理解してくれると思い、エジプト人を殺してしまいます。しかし、理解されませんでした(使徒723)。その挫折体験はモーセが同胞と同じ寄留者であることを自覚させ、遣わされる者として相応しく整えられる時を与えました。

「足から履物を脱ぎなさい。」神は燃え尽きない柴に現れ、神の業は人の目に不思議に見え、神と神の業が現れる場所は聖であることを示されました。

「わたしはある」という神は、民の「苦しみ」をつぶさに見、「叫び声」を聞き、「痛み」を知ってくださり(出エジプト3:7)降りて来てくださいました。神は、モーセが同胞の苦しみのために立ち上がるのも知っておられ、彼の働きも見ておられたと思います。しかし、神のご計画は民を苦しみから救うだけでなく、アブラハム、イサク、ヤコブとの残りの約束、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地を与える約束を果たすことでした。「わたしは必ずあなたとともにいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」主イエスを信じる者は救われるばかりでなく、遣わされ、神の守りの中に約束の地に到達する目的があるのです。

2011年8月28日 「挫折を超えて」 出エジプト記3:1~8
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