「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(121-3) アブラハムから始まった人類への祝福と救いのご計画は、その孫ヤコブの代につながります。神の存在と言葉に触れた人々は問題の渦中にあって、神がすべての中心にあることを学びました。

アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブの息子たち10人は末から2番目の弟ヨセフが父からひいきされていることを妬み、ヨセフの夢をめぐって彼を殺そうとさえします。聖書には、イサクとエサウ兄弟の家督や父の祝福をめぐる争いや、ヤコブ一家の親と子、兄弟の相克や倫理道徳問題などが隠すことなく描かれます。そして、ついにヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいます。人は自分の悲運、惨めさや悲惨さに目を向けている限り、道は開けず堂々巡りをすることがあると言いますが、ヨセフは神を畏れることを選びました。

「主がヨセフと共におられたので」(創世記3922123)彼はどんな境遇の中でも事をうまく運んだとあります。それは、神様を信じれば何でも自分の願い通りなるということではありません。むしろ、頼る神に祝福のご計画があることを信じ、その計画の中心である神様に従って生きていくことを意味します。真の誘惑は、私たちの目が肉の欲に眩むことではなく、神様から離れることです。

「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」(4116) 「夢」については聖書の中では神がご自身やご計画を現す手段の一つとして示されています。夢そのものや、夢を解く能力が焦点ではなく、神を中心に心を留めて考えていくことが大切です。(3711) ヤコブ一家に起こった争議や大飢饉という出来事は、家族を別離から再会へ、分裂から和解へと導くための布石でしかありませんでした。エジプトの宰相となり兄弟と対面したヨセフは言いました。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(458) 使徒パウロは、現在の苦しみと将来の栄光とを比較した後、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)と語りました。悪のたくらみでさえ善に変え、多くの民の命を救うことのできる神(創世記50:19)を畏れ、信じ従って行きたいと願います。

 

 

2011年8月7日 「わたしではなく、神が」 創世記41:1~16
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